ログイン朱里は悠真に投げられたスニーカーを履き、近所の定食屋へ向かった。
会社帰りにそのまま来る日に備えて、悠真がジムに置いている朱里専用の靴だった。「で、何があった」
豚汁定食を前にすると、悠真が聞いた。
「用がなきゃご飯食べちゃだめ?」
「お前から夜メシって言う日は、だいたい何かある」
朱里は大根の漬物をかじりながら彼を見た。
どんな話でもできる顔。
中学からの黒歴史をほとんど知っていて、すっぴんも酔っぱらってやらかした失敗も、いまさら何とも思わない男。
考えれば考えるほど、適任だった。
「男、紹介してよ」
悠真が水のグラスを持ち上げたまま止まった。
「急に?」
「ジムにまともな人いっぱいいるでしょ。運動も続けてて、仕事もちゃんとしてる人」
「会員の個人情報をお前の紹介に使えって?」
「そう言われると犯罪者みたいじゃん。もういい。実は紹介はもらってる」
止まっていたグラスがテーブルに置かれた。
いつもより少し大きな音がした。「誰」
「沙耶さんの知り合い。神谷湊って人。スタートアップに勤めてる」
「何してる人」
「経営企画。32歳。土曜に会う」
悠真は定食にも手をつけず、朱里を見つめた。
朱里はその表情を15年分の記憶の中から適当な名前で分類した。
心配。
信用できない。 自分が何かやらかす直前に、いつも出てくる顔。「だから、あんたの助けが必要なの」
「俺がなんで」
「男目線でアドバイスして。私、こういう紹介の場に行くと面接みたいになるんだって。目を合わせるのもぎこちないし、ちょっと近くに座られるだけで固まるらしい」
「誰が言った」
「前の紹介者」
「それ本人に伝えたの?」
「客観的なフィードバックでしょ。今回は直そうと思って。人の姿勢直すのが仕事じゃん。会話の姿勢も直してよ」
「無理やりにも程がある」
「黒瀬代表、腕いいんでしょ。会員ごとに合わせて教えてくださいよ」
朱里がスプーンをマイクみたいに差し出すと、悠真が押し返した。
いつもなら「仕方ない」とため息をついて終わる会話だった。
けれど彼は、しばらく何も言わなかった。
「その男、気に入ってるの?」
「まだ会ってないのに、わかるわけないでしょ」
「じゃあ適当に会って、違ったらやめればいい」
「今回はそうしないつもり」
「なんで」
短い一言が妙に硬かった。
朱里は笑うのをやめ、正直に言った。
「私もそろそろ、ちゃんと恋愛してみたい。いい人だったら、知ろうと努力もしてみる。今回うまくいったら、真剣に付き合うつもり」
悠真の指が、結露したグラスをゆっくり回した。
うつむいているせいで目は見えない。朱里は大げさに言いすぎたかなと思い、漬物を一つ彼の皿へ放り込んだ。
「重く考えなくていいよ。知ってる範囲で教えてくれれば」
「俺が知ってる範囲?」
彼が顔を上げた。
朱里を見る目から、いつもの無関心な色が消えていた。
大会前、スタート台に立ったときもあんな顔をしていた。
周囲の音を全部締め出して、決めた一点だけを見る顔。その視線を不快に感じるべきなのに、朱里はスプーンをいじるだけだった。
先に目をそらせば、この頼みを取り下げなければならない気がした。
やがて悠真が椅子の背にもたれた。
「わかった」
それでも朱里から目を離さない。
「ちゃんと教えてやる」
カチッ。救急箱を持った悠真が、ベッドの前へ近づいた。悠真は当然のように朱里の足元へ片膝をつく。水泳選手だった頃から硬い、広い手のひらが、朱里の冷たい足首をやさしく包んだ。「靴、もう少し低いのにしろって言っただろ」「写真きれいに撮りたかったの。一生に一回なんだから」悠真は言い返さず、消毒シートで擦れた傷を丁寧に拭き、絆創膏を貼った。指先はあくまで慎重だった。けれど足首を包む大きな手には、朱里を簡単に逃がさない強さもあった。15年。互いのすっぴんも、思い出したくない黒歴史も、ほとんど全部知っている二人だった。大学の入学式で人混みに揉まれたときも。初めて担当した連載が失敗して泣いた夜も。病院で夜を越したときも。何度も手をつないできた。それでも今夜。二人の間にあるベッドと、足元から伝わる体温は。これまでのどんな友情とも、明らかに違っていた。「悠真」「ん?」「手、本当に熱いね」朱里が気まずい沈黙をごまかすようにつま先を丸める。悠真が顔を上げ、朱里の目をまっすぐ見た。長い目元にあったやさしさの奥。あのソファで初めて見せた、むき出しの熱がゆっくり浮かび上がってくる。「お前が冷たいんだよ。365日、足冷たいな」絆創膏を貼り終えても。悠真は足首を離さなかった。むしろ手はゆっくり上へ滑り、素肌のふくらはぎをたどり、膝裏近くで止まった。「黒瀬悠真」「もう我慢しない」低い声が、重く落ちる。「15年我慢したんだから。もう、手加減しなくてもいいだろ」悠真はゆっくり立ち上がり、朱里へ身体を重ねるように距離を詰めた。朱里の肩がベッドヘッドと柔らかなマットレスの間へ沈み、これ以上後ろへ下がれなくなる。「避けたいなら避けろ」大きな手で頬を包み。唇が触れる直前の距離で、低くささやいた。「今、顔そらしたら。今日は何もしなかったことにして寝かせる」朱里は、悠真の顎が固くなっているのを見た。競泳のスタート台へ立つ直前みたいに呼吸を抑え。自分の答えを待っている。朱里は避ける代わりに、悠真の礼服シャツの襟をつかんだ。「誰が避けるって?」その一言が落ちた瞬間。悠真の唇が、朱里の唇へ深く重なった。最初のキスのような、慎重な確認も。傷つけまいとしていた迷いも。もうなかった。15年間、胸の奥へ押し込めてきた渇きが一気にあふ
15年間。朱里のいちばん近くにいる男でいられた。その長い時間が。今夜、あの知らない男の丁寧なエスコート一つで、何の意味もないものになって崩れる気がした。胸の奥から、熱い渇きが湧き上がる。朱里の手を握りたい。首筋を引き寄せて、口づけたい。15年間、頭の中でしか許さなかった欲が。とうとう顔を上げ、声を出していた。「……はあ」悠真はハンドルを軽く叩き、乾いた喉を鳴らした。窓を全開にすると、冷たい春の風が入ってくる。それでも胸の渇きは深くなるばかりだった。悠真は、朱里が店から戻ってくるまで。そこからなかなか車を動かせなかった。*その夜、22時過ぎ。帰ってきた朱里の口から出た一言が、悠真の最後の理性を切った。「手もつないだ」マウスを握る手の甲へ、太い筋が浮く。画面の会員スケジュールなんて、目に入るわけがない。頭の中では。朱里の小さな手を湊がつかんで歩く場面が、何度も重なった。「それがちゃんとつないだと思う?」「手つなぎに『ちゃんと』とかある?」「ある。こっち来い」悠真はソファの空いたところを叩き、朱里を呼んだ。少しぎこちなく歩いてきた朱里が隣へ座る。二人の膝の間には、手一つ入らない。「手」朱里が右手を出す。悠真はすぐ握らなかった。「嫌なら、ここで終わり」「急に何でそんな真面目なの」「答えろ」手のひらを開いて、待つ。朱里がしばらく見下ろし。自分から、その上へ手を置いた。「嫌だったら座ってない」そこで初めて、悠真の指が動く。長い指が朱里の指の間へゆっくり入った。途中で止める。朱里が手を引く隙を作るため。動かないのを確認してから、完全に絡めた。「恋人なら、普通こうやってつなぐ」「手が大きいからかな。すごくつかまれてる感じ」「嫌?」「嫌じゃない。ただ……」朱里が答えを探して黙る。悠真の親指が、手の甲をゆっくりなぞった。「相手がこうしたら、顔見る」「今も?」「うん」朱里が顔を上げる。悠真はもう、彼女だけを見ていた。「手だけつないで、ずっと離れたままってわけじゃないだろ」「そんな近く座るもの?」「相手がお前を好きなら、近くにいたい」「じゃあ私は?」「お前が決めろ」それ以上近づかず、聞く。「ここまで、平気?」答えの代わりに。朱里がつないだ手へ、ほんの少し力を入れた
悠真の声は、朱里の唇のすぐ近くから。やがて首筋や鎖骨のあたりへ落ちていった。二人の距離がなくなるたび。寝具がわずかに軋む音と、乱れた呼吸だけが静かな部屋に残った。「友達」という安全な殻は。その夜、ようやく二人の間から完全に外れた。けれど失われたわけではない。15年間積み重ねた信頼があるからこそ。朱里は悠真の手を止めたいときには止め。近づいてほしいときには、自分から引き寄せられた。悠真もまた。朱里の表情や指先の変化を確かめながら、何度も速度を落とし、何度も名前を呼んだ。長い夜だった。新婚の部屋の灯りが消えてからも。二人は何度も手をつなぎ直し。これまでとは違う距離で、お互いの存在を確かめ続けた。*キッチンから規則正しい音が聞こえた。トン、トン。包丁がまな板へ当たる音。少しして、また三、四回。悠真が朝ごと、朱里のためにりんごを切る音だ。朱里は寝癖のついた髪を押さえながら、布団から出た。身体のあちこちが重く、腰にも少し疲れが残っている。それでもキッチンから流れてくる、焼いたパンの香りが。朝の冷たい空気をゆっくり温めていた。キッチンには。グレーの半袖Tシャツとトレーニングパンツ姿の悠真。昨夜の熱はどこへ行ったのか。いつも通り、無愛想な顔で。塩パンと焼きトマトを皿へ分け、りんごを切っている。朱里は何も言わず背後へ近づいた。広い背中へ頬をつけ、そのまま後ろから抱きしめる。悠真の硬い腰まわりが腕に触れる。一瞬、身体が固くなり。やがて深い息と一緒に力が抜けた。悠真は持っていたフライ返しを置き。自分の腰へ回った朱里の小さな手を、後ろへ伸ばした手でしっかり握った。「もう起きた? もっと寝てろよ」「りんご切る音で起きた。わざと大きくやったでしょ」「わざとじゃない。いつもの音」悠真は身体を返し、朱里を胸の中へ抱き込んだ。朝の光が窓から差し込み。二人の薬指にはまった、シンプルなプラチナリングを光らせる。悠真が朱里の額へ軽く口づけた。それから、少し赤みの残る唇の端を指先でやさしくなぞる。「後悔してる?」「朝からまたそれ? その答え、これから一生聞くつもり?」朱里がにらむと。悠真の口元が、めずらしくはっきり笑った。「うん。だから一生答えて」言い終える前に。朱里は悠真の首へ腕を回し。塩パンの味
控室の照明は、明るすぎた。白い生花に囲まれた部屋の奥。鏡の前に、朱里が座っている。オフショルダーのシルクドレスは、細い鎖骨と首筋をきれいに見せていた。まとめ上げた髪の下。白い首筋が、いつもより目立つ。朱里は鏡の中の自分に慣れず、何度もスカートを触った。普段はモニターの前で、パーカーやシャツを着て、指が痛くなるまでキーボードを叩いている。その日常からいちばん遠い服だった。コンコン。ノックのあと、ドアが開く。濃紺のタキシードを着た悠真が入ってきた。普段のTシャツでも。外出用のジャケットでもない。広い肩とまっすぐな背中をきれいに見せる礼服が、驚くほど似合っていた。悠真はドアノブをつかんだまま、しばらく動かなかった。「何。そんなぼーっと見ないでよ」朱里は緊張をごまかすよう、わざとぶっきらぼうに言った。ようやく悠真が歩く。朱里の椅子の横へ止まっても。目はまだ、ドレスの首元と朱里の顔へ残っていた。「似合ってる」一年前。紹介へ着ていく服を選んだソファの前と、まったく同じ言葉。でもあの頃。無関心なふりをして飲み込んでいた目とは違う。今の悠真の目には。愛情も。欲しがる気持ちも。隠すものがなかった。「イヤリング、ちょっと曲がってない?」朱里が鏡を見ながら触ろうとすると、悠真が自然に背後へ来た。鏡の中で、二人の姿が重なる。187センチの悠真が身体を折り、朱里と目線を合わせる。朱里の小さな肩が、その広い身体の中へすっぽり収まる。「動くな」「動いてない」「また固まってる」聞き慣れたやり取り。悠真の温かい息が、朱里の耳と肩へ落ちる。大きな指が耳たぶへ触れた。朱里の呼吸が少しだけ揺れる。それが指先へ伝わると、悠真の顎が固くなった。「ドレス直してもらってるときは平気だったくせに。なんで俺が触ると固まる」「あんただからでしょ、ばか」朱里が返すと、悠真が低く笑った。イヤリングを直した指先が、首筋近くで一度止まる。薄いシルク越しに伝わる体温だけで。朱里の心拍が早くなった。「新郎新婦のお二人、そろそろご準備お願いします」外からスタッフの声。悠真が惜しそうに手を離した。完全に離れる前。朱里の耳元へ、低く言う。「今日の契約、かなり長いぞ。覚悟しとけ」朱里は返事の代わりに。悠真が差し出した腕へ、自分
悠真のジムの共同経営者、佐伯遼。恋愛小説チームの高梨沙耶。そして朱里と悠真。結婚式の招待状を渡すために、四人が集まっていた。「では。恋愛小説編集6年目と、片思い15年目の男友達による、永久長期契約書をお渡しします」朱里が、銀の箔押しを施した招待状をテーブル中央へ置いた。遼が待っていたように手に取る。「いやあ、ついに来たか。この日。高校の頃から黒瀬悠真が、バッグの前ポケットにあの青いミサンガを宝物みたいに入れてたの、俺見てたからな。よくやった、悠真」「余計なこと言うな、遼」悠真は刺身の皿を朱里のほうへ寄せながら、淡々と返した。朱里の苦手な薬味やねぎを、箸で自分の皿へ移している。15年かけて身体へ染みついた。呼吸と同じくらい自然な気遣い。沙耶が頬杖をつき、その様子を面白そうに見ながらビールのグラスを揺らす。「でも黒瀬さん。正直聞きたいんですけどね」「はい」「いくら長年の男友達でも、紹介の会話練習を口実に、ソファで濃いキスまで教える男友達って、世の中にいます?」「っ、げほ!」ビールを飲んでいた遼が盛大にむせた。朱里の顔は一瞬で真っ赤になり、グラスを強く握る。当の悠真だけは、眉一つ動かさない。「前にも言いましたけど。ほかの人へ紹介対策を教えたことはありません」「じゃあ朱里だけ、特別個別レッスン?」沙耶がにやりと笑う。「はい。最初は本当に手伝うつもりでした。でも今度こそ本当に、ほかの男へ行きそうだったので。ちょっと小細工しました」悠真は平然とグラスを一口飲み、続けた。「嫉妬してるのを朱里に見抜かれて、予定より早く線を越えることになりましたけど」「黒瀬悠真、ほんと……!」朱里が恥ずかしさに耐えきれず、テーブルの下で悠真のすねを軽く蹴る。悠真は痛がるどころか。テーブルの下へ手を伸ばし、朱里の手を探す。水泳で硬くなった長い指が。逃げ道のないくらい深く、朱里の指へ絡んだ。手のひら越しに。熱い体温と、重い脈が伝わる。「『普通の男友達はそんなことしない』って、沙耶さんがはっきり言ってくれたおかげです。ありがとうございます」悠真が沙耶へグラスを合わせる。「あら。私の功績、かなり大きい? 結婚式でスピーチしなきゃじゃない?」個室に笑い声が広がった。遼がようやく咳を止め、招待状の日付を指でなぞりながら笑う。長い間
交際が社内で知られてから。黒瀬悠真は、恋愛小説チームの間で、半分冗談まじりに「現実にいるS級ヒーロー」と呼ばれるようになった。朱里が残業する日は、会社の前に車を停めて黙って待つ。チーム全員分の差し入れを持ってきて、受付へ置くだけ置いて帰ることもあった。でも。二人の恋愛が、いつも甘くて順調だったわけではない。正式に付き合い始めて、まだ三、四か月しか経っていなかった春。朱里の「残業」をめぐって、大きくぶつかったことがあった。公開直前の作品の調整で。朱里が四日連続、深夜帰りをしていた時期。悠真は、夜ごと朱里の肩が固まり、腰まで痛むのを見ていられなくなった。そして。とうとう朱里へ何も言わず、沙耶へ個人的に連絡した。週末出勤や過剰な残業を、別の編集者と調整できないか。お願いに近い形で。会社でその話を知った朱里は、頭のてっぺんまで一気に熱くなった。その夜。玄関ドアを強く閉め、バッグも下ろさないまま、ダイニング前の悠真へ言った。「私の仕事の予定、なんであんたが勝手に調整するの? しかも沙耶さんへ直接電話して?」「お前、四日まともに寝てない。飯も抜いて、胃痛いって薬ばっか探してた」悠真はテーブルへ手を置き、朱里の目をそらさなかった。「だから私に聞けばよかったでしょ! 私がしんどいって愚痴ったのは、あんたに慰めてほしかったからで、仕事を勝手に取り上げてほしかったんじゃない!」「休めって百回言っても休まないだろ。じゃあ倒れるのを横で見てろって?」「見てろって言ってない! 何を手伝ってほしいか、私が言えるように待ってって言ってるの。ご飯買ってくるでも、帰り迎えに来るでもいい。仕事の分担は私の領域。私が解決することなの」きっぱりした言葉に。悠真はしばらく口を閉ざした。テーブルのノートPCを閉じようとしていた手を、ゆっくり引く。15年間。朱里を守りすぎるくらい守ってきた悠真にとって。その境界を突きつけられるのは、かなり痛かった。「……ごめん。俺が線越えた」長い沈黙のあと。悠真が肩の力を抜いた。「次から、お前の勤務に勝手に口出さない。上司へ連絡もしない。俺が決めるんじゃなく、お前が決めるまで待つ」「じゃあ今、私が頼めること何か聞いて」朱里が腕を組んで顎を上げた。悠真の口元に、ようやく薄い笑み。「明日、残業終わりに迎え行







